熊本県熊本市にある、加藤清正が築いた大規模な城。石垣の美しさで知られ、2016年の熊本地震で大きな被害を受けたが、復旧工事が続いている。
歴史
熊本城のある茶臼山の丘には、室町時代の文明年間に肥後守護・菊池氏の一族が築いた千葉城があり、その後、鹿子木氏が隈本城を築いて入った。戦国末期には大友氏や島津氏の勢力が入り乱れ、1587年に豊臣秀吉が九州を平定すると、肥後は佐々成政に与えられた。成政は検地を急いで国人一揆を招き、切腹を命じられる。跡を継いだのが、1588年に肥後北半国の領主として隈本城に入った加藤清正だった。
清正は1591年から丘一帯に新しい城を築き始め、1600年頃には天守が完成した。関ヶ原の戦いの後には肥後一国52万石の主となり、1606年に城の完成を祝い、翌年に「隈本」を「熊本」へ改めた。石垣は、下がゆるやかで上ほど反り返る独特の曲線を持ち、「武者返し」とも呼ばれる。天守へ上がるには本丸御殿の地下通路を通る仕組みで、守りを重んじた設計だった。
1632年に加藤家が改易されると、小倉から細川忠利が54万石で入城した。忠利は入部後すぐに幕府へ修繕を願い出て、本丸の増築や二の丸の整備を進めた。細川氏の治世のあいだも城は少しずつ広げられ、幕末には城内の櫓が60を超えたという。
明治に入ると、藩内では城を「無用の贅沢」として取り壊す動きもあったが、直前に凍結された。1871年には鎮西鎮台が置かれ、城は軍の施設になる。そして1877年の西南戦争では、西郷隆盛の軍が総攻撃を仕掛ける2日前に、原因不明の出火で大小天守や本丸御殿が焼け落ちた。それでも司令官・谷干城の指揮のもと、およそ4000人の政府軍が籠城し、1万4000人を超える西郷軍の攻撃を退けた。清正の築いた守りが、築城から約280年を経て試されたことになる。
昭和に入り、1933年に現存する建物が旧国宝、城跡が史跡に指定され、1955年に特別史跡となった。1960年には天守閣が鉄筋コンクリートで再建され、平成には築城400年を機に本丸御殿大広間などが復元された。2016年の熊本地震では、石垣や櫓が大きく崩れる被害を受けたが、2021年に天守の復旧が完了した。城全体の復旧は、2052年度までかかる見通しが示されている。
年表
- 1470頃年肥後守護・菊池氏の一族が千葉城を築く(文明年間)
- 1520頃年鹿子木氏が隈本城を築いて入る(大永・享禄年間)
- 1588年加藤清正が肥後北半国の領主として隈本城に入る
- 1591年清正が茶臼山一帯に新しい城の築城を始める
- 1600頃年天守が完成。関ヶ原の後、清正は肥後一国52万石に
- 1607年「隈本」を「熊本」に改める(1606年に城の完成を祝う)
- 1632年加藤氏が改易され、細川忠利が54万石で入城する
- 1871年鎮西鎮台が置かれ、城は軍の施設となる
- 1877年西南戦争。総攻撃の2日前に天守などが焼失。籠城戦で西郷軍を退ける
- 1933年現存する建物が旧国宝、城跡が史跡に指定される
- 1955年城跡が特別史跡に指定される
- 1960年天守閣が鉄骨・鉄筋コンクリートで再建される
- 2007年築城400年。本丸御殿大広間などの復元が進められる
- 2016年熊本地震。石垣や櫓が大きく被災する
- 2021年天守の復旧工事が完了する
見どころ
- 「武者返し」と呼ばれる反りをもつ石垣
- 唯一現存する天守級の建物・宇土櫓
- 復旧の過程を見学できる特別見学通路
地図
この城をめぐる歴史
ゆかりの家系
出典
- 公益財団法人日本城郭協会 日本100名城一覧 / 取得日 2026-09-30
- Wikidata(座標)(CC0) / 取得日 2026-09-30
- Wikipedia「熊本城」(参照)(CC BY-SA 4.0) / 取得日 2026-09-30
- 写真: Kumamoto Castle Keep Tower 20221022-3.jpg(Suicasmo / CC BY-SA 4.0)





